通龍山圓通院について


 当通龍山圓通院は第百代後小松天皇代の応永元年(一三九四年)上州(群馬県)白井村の最大山雙林寺三世曇英慧応大和尚によって開山された通幻派最乗寺系の曹洞宗寺院であり、御本尊は聖観世音菩薩であります。かつては鳴瀬川北岸に境内面積約二千坪を有する大伽藍でしたが、大正二年の鳴瀬川流域の大洪水の為、大正四年五月に現在地に移転し今に至るものであります。

 

 旧本堂は、平成二十三年三月十一日東日本大震災の影響で壊滅的な被害を受けましたが檀信徒を始め篤信なる多くの方々のご協力、援助を頂戴し平成二十七年十一月新本堂の落慶法要、三十三世の晋山結制と大法要を円成することが出来ました。省みるに東日本大震災の被害を受けた檀信徒住宅全壊数が十六戸、全檀家が半壊、一部損壊と評価された甚大の被害の最中、菩提寺護持の為に御協力頂きました事言葉に表せぬほど只々感謝いたします。

 

  総じて仏教はもとよりあらゆる宗教の根幹には、自身の心の安心を持つのが理想であり、今をしっかりと受け止めることにより豊かな人生を送れるものであろうと感じています。どうぞお気軽にお越しいただき、各々が安心を得て頂ければと存じます。

御来山お待ちいたしています。   

                                 曹洞宗通龍山   円通院 三十三世住持職 花釜泰寛合掌


(本山)

 

(宗派)

 

(御本尊)

 

(開山年)

 

(開山)

 

(所在地)

 

(境内諸堂)

永平寺(福井県) 總持寺(神奈川県)

 

曹洞宗(禅宗)

 

聖観世音菩薩

 

一三九四年(応永元年)

 

曇英慧応大和尚(群馬県雙林寺三世)

 

989-6315 宮城県大崎市三本木新沼字二又一四五ノ一

 

開山堂・位牌堂  

法蔵殿(永代供養塔)

淨蓮菴(通夜会館)

客殿(供養膳会場)

三十三観世音菩薩

黒観世音菩薩堂


御本寺 最大山 雙林寺(群馬県渋川市)

末寺院 龍臥山 積雲寺(加美町四日市場)

 仝  群龍山 大光寺(三本木桑折)

 仝  小原山 大祥寺(加美町下新田)

 仝  白馬山 龍泉寺(高清水 廃寺)

平成二十九年三月彼岸日

                          圓通院三十三世 周志泰寛代

 

境内の様子


クリックすると拡大します。

歴代住職名


開山・・・勅特賜宗猷大光禅師曇英慧応大和尚 2.中興伝宗文察大和尚 3.蘭室英芳大和尚 4.外天守芳大和尚 5.西雲全泊大和尚

6.一通慧最大和尚 7.峯菴紹丘大和尚 8.月伝広歳大和尚 9.隼嶺広朔大和尚 10.陽外広春大和尚 11.堅屋宗如大和尚

12.月翁関補大和尚 13.延巌賢祝大和尚 14.三嶺宗寅大和尚 15.月丘梅禅大和尚 16.慶堂泰門大和尚 17.芳林少美大和尚

18.緇林慧白大和尚 19.豪山義英大和尚 20.雲山瑞峯大和尚 21.一桂天山大和尚 22.大雄隆山大和尚 23.嶺巌泰堂大和尚

24.真乗異玄大和尚 25.再中興護山仙苗大和尚 26.珍山正童大和尚 27.喜山仙童大和尚 28.道悦玉隆大和尚 29.泰音真孝大和尚

30.雲嶺達仙大和尚 31.重興自覚天由大和尚 32.大弘泰賢大和尚 33. 周志泰寛代(現住)

 

有名人の墓牌


瀬戸土佐義辰の墓・・・・・二又瀬戸家の祖先

保土原行藤江南斎の墓・・・二又保土原家の祖先

男沢千里(珍平)の墓・・・南野土に居住、寺子屋の師匠

庄司道英の墓・・・・・・・寺子屋の師匠、医者、小学校の創設者

佐々木善兵衛の墓・・・・・高倉村収入役村長

横山若狭の墓・・・・・・・上宿横山家の祖先

相沢与右ェ門の墓・・・・・釜屋敷に居住、田中帯刀の末裔

檀家地域


下宿、上宿、中谷地、下沖、上沖、北谷地、南谷地、斉田、蟻ヶ袋、伊賀、その他、町内外。

黒観世音菩薩の由来について


 今を去る約150年程前の昔話になりますが、佐藤家、松野家の祖先に当たる俗名 佐藤杢之助清吉(明治8年12月27日没)という人が魚を買い求めるため石巻へと旅立ったのでありますが、現在の石巻市に近き、ふと海岸の方を見ますと、大きな真黒い物体に数人の子供達が、さも面白おかしく、馬乗りになったりして遊び戯れて居るのを発見したのであります。

 

 余りの不思議さに近づいてみますと、それが何と立派なお姿をした黒観世音菩薩であったのでございます。それを見た祖父はいかばかりか驚いたことでしょう。信仰心の厚い人だったと見え、魚を買い求めるべく持参した金を子供達に与え、黒観世音菩薩を譲り受け、遠い石巻市から背負って帰宅したのであります。それを見た家族の人達はびっくりしたり喜んだりで、、まるで昔話にある浦島太郎の再現のようだなどと語り合ったものだと当時の模様を母から聞いております。早速、圓通院に奉納されたのでありますが、当時は、この黒観世音菩薩様が、疫病に、不時の災難に霊験極めて釈然であるとて、遠近の信仰をあつめ多数の参拝者があったのでございます。特にお産の神様としてお枕をお借りして産婦の枕となし、安産の祈願したのです。

 

 現に黒観世音菩薩様の足下にある多数のお枕を見ても住時の様子が偲ばれるのであります。昭和の時代に入るや満州事変を契機とし、支那事変、大東亜戦争、そして日本人として、かつて経験のない敗戦へと世は国を挙げて動乱の時代へと突入したのであります。

 

 その後敗戦の貧困から現代の高度成長を見るに至ったその背景にはともすれば物質文明におぼれる等も重なり、敬神の念おのずから薄らぎつつあったことは否めない事実でございます。

 

 現に私らは黒観世音菩薩のことはすっかり忘れていたのでございます。こうした最中、圓通院住職・花釜天由氏が私の実兄松野純一氏に「いや、実に不思議なことがあるものです。」と、次のようなお話をされたのです。「青森県の土手町に住まいをする山口知子さんと云う13才になる山口いくさんのお孫さんが病に冒され八方手を儘くして療養に努めたが思うに任せず、思い余って神様にお伺いをたてた処、宮城県に圓通院と云う寺院がある。そこに黒観世音菩薩が祭られているから、そこにお参りし、病気平癒の祈願をなさい、と云う御託宣を受けたのであります。依って、早速はるばる青森県より三本木町の圓通院を探し求め、黒観世音菩薩に3ヶ年の病根平癒の願掛けをして、毎年欠かすことなくお参りにきたのでありますが満願の年に首尾よく病気全快なされ、今年お参りに来ましたと云うお話をされたのでございます。」

 

 それを聞いた兄は「はて、黒観世音菩薩と云えば、うちの祖父、佐藤杢之助が奉納された仏像である。それ程霊験釈然な黒観世音菩薩ならばなおざりにしておくことはできない」と今更ながらおそれおののいたのでございます。早速、近隣に住まいをする佐藤杢之助氏の孫に当たる佐藤宗樹医師、佐藤英男氏、松野亀三氏、保土原うめ氏、松野純吉氏、松野純一氏、そして私早坂純三の7名あい計り一昨年第一回の心ばかりの法要を執り行ったのでありますが、それを契機として黒観世音菩薩の不思議なご加護をいただいた方が次々と現れ、霊験釈然な神様として信仰をあつめ、平日はもとより御縁日(毎年6月17日)には参拝者がしきもきらさぬ盛況を呈するようになったのであります。

 

 こうしたときに、黒観世音菩薩の御神託もあり、且つ参拝者の便宜をも考慮され、観音堂新築の気運急速に高まり関係機関のご協力のもと、且つ信者の方々のご支援を得て浄財をあつめ、木の香りもゆかしく見事に竣工いたしました。

 

 本日ここに黒観世音菩薩を安置し、落慶の式典を執行するに至ったのでございます。

 悩み多き吾等人生に一縷の心の安らぎを求めるため,行く末長く、ご近所お誘い合わせの上、ご参拝いただければ幸と存じます。

 

筆者 三本木町北町

   佐藤杢之助 孫 早坂純三

昭和57年11月27日